庄司優果の記録

音楽や旅や食べ物などの記録用に。

この世の中は人が作り出したもので溢れている。

私は、歩いていたり、電車の中から外を見ていたりするときにふと思う。今、見ている景色の中のほとんどが人間の手により作られたものだと。街で咲いている花や木も人間が育て植え替えたものの方が多いと思う、電車やバス、コンビニエンスストアファミリーレストランも人間が思いつき、動かしている。考えれば考えるほど、地球は人間に染められているのだと思ってしまう。

 地震が起きた時の被害だって家の下敷きになったり、火が回ったりと、人間がもし建築技術を考えつかなければ、ガスコンロを開発しなければあのような大きな被害は出ないだろうと。考えても意味のないようなことが、毎日毎日頭の中をグルグルグルグル回っているのだ。

 小さい頃、よく宇宙は本当にあるのだろうかと考えていた。写真や絵でしか見たことがないからどうも現実味がない。3D映像の技術も今はすごい進歩してるし、本当のところ本当に宇宙があるのか、地球は本当に浮いているのか今でも疑っている。

 約47年前、アポロ11号という名のロケットが打ち上げられ、初めて人が月に第一歩を踏み入れた。アームストロング船長が先に、続いてオルドリンが。彼らは「惑星地球からの人間ここに月面への第一歩を印す、19697月、われわれは人類の代表として、無事にここに到達した。」と刻まれた金属板を月面に設置したそうだ。本当にすごいことだと思う。だけど最近では、もうすぐ一般人までもが宇宙に行けるかもしれないと言われ、月の土地まで販売されている。初めて月に人が立った時、世界中に大きな衝撃が走り、子供から大人までみんなが感動したのに今ではその栄光も薄れつつある。そんなことで良いのだろうか。科学や技術が進歩していくことはすごいことなのかもしれない、しかし一方で科学や技術が進歩していくに連れて、地球が弱っていくのではないか私は思う。

 今からずっと昔、言葉もない頃、私たちのご先祖様に当たる人たちは洞窟や地べたで生活をしていた。生活できていたのだ。初めて家のようなものを作り、完成した時どれほど感動しただろう。その時の感動なんて今この時代を生きている私たちには全く語り継がれていない。家が立っていて、家の中にいる時、雨に当たることもないし、風に吹かれることもない、寒さもしのぐことができる終いには暖房器具や冷房器具まで使えているこれが現代では当たり前で、ほとんどの人は家がないなんて考えられない。昔から今まで家というものがなければ今頃人間は強靭な体になっているだろう。暑さも寒さも攻略しているはずだ。新しいことを思いついたり、作ったりすることは楽しくて、素晴らしいことだと思う、しかし、新たな発明により人間は自然環境に負担をかけている。本来土だったところの上をアスファルトで固め、土で固まっていた地下にトンネルを作り、山を削り家を建て、海に土を埋めその上にも家を建てる。人間がしていることは自然へのいじめであり、自然破壊でもある。口の横に少しケチャップがついたくらいで拭き取る人間に自然の気持ちを考えられるはずがない。

 博多駅の道路陥没、本当に驚いた。コンビニエンスストアの目の前の道路が綺麗さっぱり陥没してない。地下鉄を走らせるために地下を掘っていたらしい。地下を掘っていた業者の人たちは本当に焦ったと思う、何より死者・負傷者が出なかったことに対して、心の底から『ホッ』としただろう。さらに、福岡市長の対応の早さにも驚いた、専門家でもあの陥没部分を埋め車が走るこのできるようにするのは最低でも1ヶ月はかかるだろうと言っていたのに、市長は迅速に業者を手配し24時間体制で陥没してしまった地下を水の中でも固まる特殊なコンクリートで埋め続け、わずか3日で車の走行チェックまで行ったのだ。陥没事故発生から1週間経った頃には交通規制解除。日本の市長とは思えない迅速さで本当にすごい方だと思った。どんな人なのかと思いながらテレビを見ているとやっぱり若い人だった。私自身の独断と偏見だけど、もし今回の陥没事故発生の時の福岡市長が威張っていて上から目線なおじいちゃん市長だったとしたら、復旧はもっと遅くなっていたのではないかと思う。今の日本にはしっかり意見を持った若者が必要なのだ。

 つい最近では政治家のお金に関する問題が飛び交っていた。国民の税金から国民より多いお給料をもらっているにも関わらずまだ国民の税金を仕事以外のことにまで使おうとする。そんな人たちばかりではないのはわかっているけれど私の中の政治家総合評価は過去最悪、信用を失っている状況だ。今もなおバレることなく国民の税金を使っている政治家もいるやもしれない。そんなこと知ったこっちゃないけど。

 そういえば小学生くらいからたまに自分でもよくわからないことを考えてしまうことがある。共感してくれる人がいれば嬉しい。普通に道路を歩いている時に、電柱が立っていることに対してすごいなぁと思ったり、地面がアスファルトで覆われていることに対して感心したり、街中にあるもの全部、最初に考えた人がいるのすごいなぁ、作った人すごいなぁとか。終いには自分の手が動くことや髪の毛までにも感心する。細胞なんて直接目で見たこともないのに私は細胞の塊。何もかも全部が理解しがたく難しい。私は本当に人間なんだろうか、もしかすると今この状況が夢なのかもしれない。考えても考えても考えきれない。

 お母さんのお腹の中で赤ちゃんが成長し生まれてくる。神秘だ。なぜお腹にいる時は水の中でも死ななかったのに、お腹の中から出てきた今は水の中で息ができず死んでしまうのだろう、溺死があるのだろう。調べるとすぐ理由がわかるのだと思うけど、調べないでおこう。知らない方がワクワクすることもあると思うから。

 話が180度変わるけど、私は地震が発生した時に小学校などで親が子を迎えに行くための訓練『引き渡し訓練』が行われる意味がわからない。事前に引き渡し訓練があるという報告があれば、仕事をしている保護者も休みを取って引き渡し訓練に参加することができるかもしれない。しかし、いざ災害が起きて保護者がすぐに迎えに行けるとは限らない。すぐに迎えに来られない保護者もいるだろう。周りの子達は迎えが来て帰って行く中、自分にはなかなか迎えが来ない。そのようなことが十分考えられる。どれほど心細いか。また、家に帰る途中被害にあい命を落としてしまうこともある。私は思う、学校は安全少なくとも家よりは。それならば、親が避難所で必要なものと非常持ち出し袋を持って学校へ行き、学校で止(とど)まってはどうだろうそうしたら一人ぼっちになってしまう子も出ないし、帰宅途中での二次被害にも遭わない。

 東日本大震災で幼稚園バスが津波に飲まれ、発火し園児5名が犠牲になるという悲惨な出来事があった。地震発生から3日経った314日園児は変わり果てた姿で焼き焦げた送迎バスの近くで発見された。同じようなことが他の幼稚園でもあった。

 元々、幼稚園は高台にあり幼稚園で待機しておけば被害にあうことはなかった。しかし、幼稚園バスが11人家に送ろうと海側に降りて行ったことにより犠牲となってしまった。この時、地域の人たちは幼稚園のある高台に避難しに来ていたそうだ。そもそも地震が起きたら親元へという概念がおかしいのだと私は思う。

 また、石巻市立大川小学校では、74名の児童と10名の先生が犠牲となった。大川小学校はハザードマップ津波が来るとは想定されておらず、避難所にまで指定されていた「想定外だった」1つの学校で84名も亡くなっているので想定外だったでは済まされない。大川小学校に流れて来た津波は、海が川まで押し寄せ逆流した水がいきよいよく溢れ出たもので、予想はしづらかったのかもしれない。

 今年の夏、大川小学校へ訪問した時、「ここまで登っていたら助かっていたかもしれない」という学校の裏にある山を見せてもらった。元気な小学生なら間違いなく登れたと思う。本当に怖かっただろう。そして今もなお犠牲となった先生方は深く後悔していると思う。(あの時、山に登っていたら)あのような出来事が二度と起こらないよう全国の学校関係者にはしっかり防災を学び、子供達にも伝えて欲しい。また、災害時でも保護者が「子供たちは今学校にいるから大丈夫。」と安心できるような環境を作るべきだと思う。そのためにはやはり学校においては教員の危機管理能力、防災知識量、判断能力、冷静さ、説得力がなってくのではないかと考える。防災知識を増やすことに関しては、もう学ぶしかないので教員試験の時に「防災」という科目のテストを実施したりと国ももう一度本気で教育現場の防災体制を見直すべきだ。もういっそのこと「防災」を必修科目にしたらいいと思う。中学体育でダンスが必修にできたならできるでしょう。あんなに災害で人的被害が出てるのになぜ国はもっと本気で防災に取り組まないんだ。身内に被害が出てから動くのか?私が言いたいのは本当に防災に力を入れないとダメだということ。

 

 

 

                                                                                                                                         2016.1.13